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御駄物な話

伝統的な技法を駆使して天上天下唯我独特なデザインを生み出す駄な物づくり哲学

カテゴリー "歴史" の記事

実は山県昌景も好きでして

今月の歴史街道に山県昌景(やまがたまさかげ)の特集が載っています。
まぁメインは龍馬の暗殺についてでしたが……。
歴史街道 2010年 12月号 [雑誌]

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価格:630円(税込、送料別)


それよりも武田信玄の4宿老の一人「赤備え」の山県昌景の方にひかれて本屋で買ってしまいました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E6%98%8C%E6%99%AF


戦国時代の最強武将は三河武士・本多忠勝に間違いないでしょうが、彼に匹敵するのは山県昌景です。
三方ケ原の戦い・長篠の合戦では本多隊VS山県隊が実際に行われたようです。
黒の鎧に身をつつんだ本多忠勝と赤の鎧に身をつつんだ山県昌景の戦いは黒澤明監督の「乱」を彷彿させますね。
若き徳川家康を常に苦しめ続けた山県昌景は長篠の合戦で力尽きますが、その華麗な真っ赤な鎧姿は徳川四天王の一人「井伊直政」に引き継がれ彼を赤鬼と呼ばせるほどになります。
そしてそのスピリッツは現在「ひこにゃん」に受け継がれております。


image.jpg


山県昌景の壮絶なる戦国時代の生き様とその華麗なる甲冑姿が武将達を魅了させたおかげで「ひこにゃん」が生まれたのです。
ひこにゃんの赤い鎧が気になる方はぜひ今月の歴史街道をお読みください。


ちなみに山県昌景の赤い甲冑は八王子市の名和美術館で見ることができるそうですよ。
http://www.yamamotokansuke.com/shiro/tenzan/index.htm
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築山殿と松平信康の首塚を訪れる

昨日年末調整用の書類を貰いに岡崎に出かける用事があったので以前から気になっていた場所に行って見ました。
それは徳川家康の正妻・築山殿の首塚が祭られている八柱神社です。


歴史好きな人にしか分からないとは思いますが、徳川家康は織田信長に正妻と長男を殺害されています。
(長男は切腹、妻は殺害ですけども)
091229_1024~01
(画像は影武者徳川家康からお借りしています)

この事件がなんとも不可解です。
当時唯一同盟を結んでいた徳川家康に殺害するように命じたのか?
信長の真意が分かりません。
歴史家も分からないので沢山の説が出ています。



興味のある方はウィキペディアで調べてみたら面白いですよ。
松平信康(家康の長男)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7
築山殿(家康の正妻)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%B1%B1%E6%AE%BF



分からないのなら現地へ行く。
これが鉄則です。
八柱神社は岡崎インターの近くにある小さな神社です。
住宅地にぽつんとありました。
八柱神社

築山首塚1

築山殿の首塚は神社から少し離れたところにありました。
築山首塚2
うっそうとした木々の中にぽつんと五輪の塔がたっていました。
あまり人が訪れないんでしょうね。
徳川家康は妻を娶ったのは築山殿だけです。
築山殿が死んだ後は正妻の座は空席でした。
何ともミステリアス。


八柱神社に案内板があり、家康の長男・信康の首塚もあると書かれていました。
場所を調べると案外近い。
早速車を走らせて信康の首塚のある若宮八幡宮へ。
国道1号線を少し入ったところにありました。
こちらもひっそりとした場所にぽつんと。
若宮八幡郡


この神社の祭神が仁徳天皇と松平信康になっています。
さすが家康の長男です。
ここには信康の死後、岡崎城で幽霊騒ぎが勃発。
信康の慰霊を静めるためにこちらの神社に祭られたようです。
やはり無念だったんでしょうね。

信康首塚2


信康公の首塚は築山殿とは違い柵が設けられていました。
近くには入れません。
信康首塚



徳川家康の天下泰平への道は本当に険しい物だったのが今更ながら理解できます。
本当に「忍」の男だったんだと思います。
信康や築山殿のように死ななくてもよい死が沢山あったんでしょうね。
三河の人間は辛抱強く、志は高くいたので天下が懐に転がってきたんだと思います。



少し調べると歴史の舞台がでてくるのが三河です。
1時間程度のぶらり歴史旅ができる幸せ。
この地に生まれてよかったです。

昨日は徳川家康誕生日

中日新聞に家康公のバースデー記事が載っていました。
家康誕生日
この企画をしたのは知り合いの画家さんだったりする。
素晴らしき郷土愛!


本日も岡崎城周辺のデパート街でイベントがあるようです。
お時間のある方は歴史に触れる休日を過ごしてみてはいかがでしょうか?

「聖徳太子とキリスト教の関係について」

岡崎のタウン誌「リバ!」にて連載中の「あの世授業・ロッキン六道」はクリスマスと仏教について書きました。
本日はクリスマスなので特別に公開です。


 今回はクリスマス特別授業です。
世界最古の木造建造物である斑鳩の法隆寺。
ここの六角形の奇妙な建物「夢殿」があります。
修学旅行で行った事ありますね。
ここには聖徳太子をモチーフにした仏像・救世(くぜ)観音菩薩が安置されています。
実はこの仏像が謎めいています。
明治時代まで千数百年間、布でぐるぐる巻きにされて完全に秘仏とされていました。
また光背の付け方も特殊で、後ろから頭に直接打ち付けられていました。
このような理由から聖徳太子の怨念を封印する呪術的な役目をしていた仏像だと考える学者さんもいます。
注目するべきは救世という独特の名前を持つ観音菩薩だという事です。
これは世を救う人という意味で救世主を表す言葉です。
仏教では使わない言葉です。
どこで使われるかというと、そうですキリスト教です。
教科書ではフランシスコ・ザビエルが1549年にキリスト教を伝えたって学校で習いましたよね。
少し視野を広げてみると、中国では600年代にキリスト教(景教)が一時期流行していたと文献に残っています。
聖徳太子の時代に海を渡ってきた人達の中にキリスト教についての知識を持っていた人がいても不思議ではありませんよね。


話しは変わりますが、正倉院に伎楽面があります。
その中に酔胡王(すいこおう)というお面があります。
そのお面は極端な鷲鼻の赤ら顔、まるで昔話にでてくる異人です。
特に「胡」という文字はペルシャ系を表す言葉でもあります。
聖徳太子の頃の斑鳩は案外国際的な都市だったかもしれません。


 こういう理由から仏教徒だと思われていた聖徳太子がキリスト教徒だったという説もありますが、僕は違うと思います。
きっと知的で温和な人物だった聖徳太子はネットワークが広かったと思います。
友人にはキリスト教徒がいたとしても不思議ではありません。
救世観音はそんなキリスト教徒の人が聖徳太子の亡くなった時に奉納した物ではないでしょうか? 
キリスト教スタイルの仏像になってしまったのではないでしょうか? 
とは言っても真相は闇の中ですが……。
天平時代からキリスト教と仏教の融合があったとしたら、仏教徒の日本人がクリスマスを祝うのは千数百年の歴史ある伝統的矛盾だと思います。


今月のことば
仏教徒がクリスマスを祝う背景には千数百年の歴史あり!



あの世授業が載っているリバ!は岡崎各所で無料配布されています。
見つけたら手にとてみてください。

徳川家康と時計

昨日は地元のお寺・西方寺さんにお邪魔してきました。
ここの住職が手作りで「からくり人形」を作成したのを中日新聞で拝見して知り合いと一緒にお話を伺いに言ってきたんです。


江戸時代の本から図面を起こして1年かけて作り上げたのが、このからくり人形です。
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下のからくり部分も見せていただきました。
主要な部品はすべて木材です。
091221_1815~02
カタカタ動く姿は何とも愛らしかったです。


このからくり人形の原理は時計です。
そのルーツをお聞きしていると出てきた名前が「徳川家康」
おっとここでも戦国&三河が繋がるとは……。


現存する日本最古の時計は徳川家康が所有した物だそうです。
織田信長にも時計は外国から献上されたようですが、信長は時計よりも舶来の帽子と孔雀の羽の方が良いと返してしまったようです。
家康は独自に動く時計の仕組みに興味を持ったようでとても大切にしたそうです。
しかし、機械は壊れてしまうものです。
その修復を津田助左衛門という者が見事に行い、御時計師という役職を与えられ和時計が作られるようになったそうです。


時計の原理を使ってからくり人形が誕生しました。


実は愛知県にはもの凄くいろいろ所に「からくり時計」があります。
ここのサイトにいろいろと載っていました。
http://mediazone.tcp-net.ad.jp/MISO/KARATOKEI/


岡崎公園にもからくり時計があります。
能を舞う家康が動く物です。
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家康の趣味が高じてからくりという一つの文化が出来上がったと思うと、このからくり時計はとても素晴らしい物ですね。
いろいろな文化が三河武士と繋がっていきます。




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