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御駄物な話

伝統的な技法を駆使して天上天下唯我独特なデザインを生み出す駄な物づくり哲学

2014年05月の記事

僕は「東に薬師如来、西に阿弥陀如来のいる町」が理想の住処です

久しぶりに仏教的なことも書いてみたくなった。
僕は自分が生まれた町で実家の近くに住んでいる。
過去にこの街を離れたのは大学時代にアメリカに4年住んでいた時だけだった。
さすがに近所に仏像はなかった。


もし僕が引っ越すとしたら、素敵な仏像のある町が良い。
それも自宅からみて東側に薬師如来がいて、西側に阿弥陀如来がいるといいなぁって思う。
実は実家はその条件にぴったりだったりする。
東には浄土寺(天台宗)で本尊が薬師如来、西には正楽寺(浄土真宗大谷派)で本尊が阿弥陀如来。
その中間に我が家の実家はある。


なぜ東に薬師、西に阿弥陀かと言えば、太陽の動きからだ。
昔の人は太陽が昇る東を生命の誕生、沈む方角を死と連想していた。
原始の思想なんて実に単純だ。
日が昇ればありがたいと思い、日が沈めば悲しい気持ちになる。
薬師如来とは名前からイメージできる通りお医者さんのような仏様です。
信仰すれば病気が治ったりするので、生きるための仏さまだ。
徳川家康のご両親も岡崎城から東にある鳳来寺のお薬師さんに祈願して誕生したのは有名な話です。
東には生命誕生のイメージがあるんです。


そして西といえば日が沈む。
しかし、その先には西方浄土という阿弥陀如来が暮らす極楽があります。
日本人が死後に行きたい場所ナンバー1の所です。


薬師と阿弥陀の中間こそが生と死の延長線だと思うと、住宅を建てるとなんかいいなぁと思ってしまいます。
しかし、そんなに都合よく立てられるわけないので、自分の家から東方面にある薬師如来を探したり、西方面にある阿弥陀如来を探したりして自分を納得させるのが一番かもしれないです。
愛知県ってお寺の数が日本一多い県なので、どこに住んでも適合しそうな気がします。


写真は最近制作にはまっている流木と廃棄される仏像を組み合わせた仏教系ジャンクアート「ロスト」シリーズです。
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僕が思うボランティアについて

僕がやってきたボランティアっていうと東日本大震災で津波で傷ついた位牌の修復作業が一番最近の物です。
仏壇職人の技術でできる事を依頼者にお金をもらわずにやっただけのことです。
資金を自分の周りの人が捻出してくれた。
ボランティアってのも実際商売と一緒でお金はどこかで動いている。
商売と違うのは商品購入ではなく活動、もしくは感動にお金を支出してくれたという事だろう。


僕がやってきた活動の多くはボランティアの要素を含む。
アートマンのグループを作ったのも伝統的工芸品「三河仏壇」の伝統技術をどうにか保全したいと思ったからだった。
幸田町の商工会等でやったことも地方の街の活性化のため。
とは言っても自分自身はボランティアなんて思っていなかった。
仲間とワイワイやっているだけであって、振り返るとボランティア的な要素が満載だったと思うだけである。


常日頃からボランティアをやる時に思っていることがある
「良いことは麻薬みたいなものである」って事。
良い事をやると気持ちが良い。
正義を振りかざして正論を言って人をギャフンと言わせると気持ちが良い。
正しい事をやっているから自分は正義だと思っていると、僕から見ればそれは既に危険な思想の持ち主に思える。
そもそも、正しい事や正義は哲学の世界でもきっちりと定義なんか出来ていない。


だから、僕は自分が正しいと思う事をやっていると思うようにしている。
要するに立場が変われば迷惑かもしれない行為をやっている可能性もあると心の隅に置くようにしている。


津波被害で位牌を無料で直せば、それを仕事にしている地元の仏壇仏具関係の方に迷惑をかけることになる。
何かアクションを起こせば、どこかで弊害が生まれる。
それは仕方がないことだが、心の片隅にはなければいけないと思う。


こんな真面目なことを書くつもりではなかった。
僕が住む幸田町でボランティアで関わっている企画があります。
それが「イケメン彦左」
幸田の駅前で20年以上続く、我が町の英雄「大久保彦左衛門」公をフューチャーした祭り「彦左まつり」のPR大使の公募企画です。
大久保彦左衛門=メガネかけているって事からメガネが似合う男子をキャンペーンボーイとして募集しちゃおうという緩い企画です。
その募集は本日までになっています。
選出されるのは3名。
その方々には名古屋大須のカリスマメガネ店「モンキーフリップ」さんと都築仏壇店がコラボしたゴールドメガネを進呈。
唯一無二の遊び心満載のメガネです。
詳しい事は「イケメン彦左」専用HPにてご確認ください。
ikemenhikoza.jimdo.com/
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僕の愛用のマグカップ

都築仏壇店で働きだしてから、母親がいれてくれるコーヒーを職場で飲むのが毎朝の習慣です。
愛用しているのは「ファイヤーキング」のDハンドルの白いマグ。
実は2代目です。
以前は定番のジェダイ(翡翠)カラーを使っていましたが、今の方が長く使っていることもあり気に入っています。
自宅でもファイヤーキングを使っているのですが、そちらはバンブータイプのアンバーです。
そいつもお気に入りです。


ファイヤーキングはアメリカではすでに生産がストップしていて、現在あるのはデッドストック品。
しかし、最近生産が再開されました。
なんと日本の東北地方で。
ファイヤーキング・ジャパンとして復活しています。
古き良き時代のアメリカが日本で復活しているのが超うれしい。
先日、日本で生産されたファイヤーキングを手に入れることができたのですが、それがまた白色のスタッキングマグ。
僕の持っているDハンドルの乳白色が見事に再現されていました。


ガラス製の器ってアジアっぽくないですよ。
漆器、陶器が古来のアジアの物。
ガラスはやはり西洋の物ですよ。
でもこのファイヤーキングは陶器とガラス製品の中間のような質感です。
乳白色のマグにコーヒーをいれるとうっすらと黒色が透けるんです。
このテイストってすごい好きです。
異質の物がバランスよく交差して生み出された物って人々を魅了します。
僕はそういう物が好きです。
料理だって食材の組み合わせで美味しく感じたり、不味く感じたりする。
絶妙なバランスや見せ方で物が面白くなったり、つまらなくなったりする。


コップの中に入っているコーヒーの種類とかにはこだわりがない。
スタバで飲む紙コップのコーヒーよりもファイヤーキングの器に入ったコーヒーのが旨いと感じます。
伝統の世界にいるなら漆器使えよって言われそうですけどね(笑)
それはもう少し僕が成長してからってことで。
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僕の好きなデザイン「イームズチェア」

なぜか僕はミッドセンチュリーデザインが好きであります。
その中でもイームズチェアはダントツ大好きです。
コツコツと購入して気が付けば10脚ほどコレクションしてしまいました。
もちろん復刻版ではなく1950年代~60年代の当時物ばかり。
イームズがブームになる前に買っていたのでコレクションできたのですが、今だったら高くて買えないな。


日本人にとって椅子の文化は歴史が浅い。
元々畳の上に座布団敷いて座る文化であった。
僕が子供の頃でも椅子に座って食事をするって風習はなかった。
気が付けば日本人の殆どが椅子に座って食事をするようになっている。
お寺でも膝が悪い人が多くなって椅子でお参りするようになってきている。
椅子とは凄いスピードで日本文化に浸透してきたのだ。


昔の日本人では椅子に座れるのは一部の人間だった。
座している人よりも一段上にいるので、身分の高い人しか椅子には座れなかった。
その中に僧侶がいた。
座っていたのはキョクロクという独特の椅子。
その僧侶用の椅子を僕のお爺ちゃんが作っていた。
高度経済の成長時期に海外でその椅子が作られるようになって、父がその技術を仏壇製造にイノベーションさせた。
そして僕は仏壇屋の2代目としているのだが、仏壇も海外で作られるようになって新たなイノベーションを模索している。
物つくりは常にイノベーションを求められるセクションなのだろう。
伝統を守れるひと握りの世界は、物づくりだけでなくブランディングも同時にやってきた人達だと思う。
日銭を稼ぐ仕事ではなく、数十年先を見据えていたのだろう。
そのような先人を本当に尊敬する。


僕は物づくりの原点が大切だと思う。
仏壇を作ってきたのではなく、僧侶の椅子を作ってきた家であり、その先は米を作っていた百姓の家だった。
代々新しいことをやってきた家であり、創意工夫に挑戦してきた家であるのだ。
だから守りを大切にしないのかもしれない。


宇宙が今よりも近かったミッドセンチュリーの時代。
その中でそぎ落とされたデザインを持つイームズチェアに魅力を今でも感じる。
それは凄いことだ。
イームズデザインは伝統って言葉を使わない。
数十年たっても最先端だからだろう。
いつかそんなデザインができればいいと思う。
なので僕がデザインするときに座るのは常にイームズのチェアである。
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僕が思う物つくり論「技術に走らない」

僕が一番こだわらないのは技術の向上。
技術の向上は目的ではなく結果だと思っているからです。
長い年月かけて作るから自然と技術が向上していく。
若い職人(昔の僕も含む)は早く一人前になりたいと思ってしまう。
その思いは一番最初に目を良くする。
仕事の良い、悪いが見えてしまう。
自分の仕事の悪さが恥ずかしいのだ。
上手くできるはずはないのにね。
そしてそれは他者の仕事の出来の良し悪しもわかるようになる。
技術がなくて売れている人を悪く言いたくなるものだ。


僕が作ってきたものは異形である。
駄菓子のように駄工芸と呼ぶべきような物です。
でも僕が作りたかったのもその分野なのです。
理由は簡単です。
もっと身近な所に仏壇及び仏壇職人を持っていきたかった。


僕らが作ってきた「三河仏壇」は国から伝統的工芸品に認定されています。
300年以上まえからこの土地で受け継がれてきた物であります。
しかし、その仏壇は最低でも数百万円、固いのは数千万円する物まであります。
宗教心のある時代は、気持ちよく仏壇にお金をかけてくれました。
今は悲惨なものです。


物が売れなければ伝統は守れない。
伝統職人が暮らせなければ、伝統は無くなります。
どんなに技術が素晴らしくても消費者がいらないと言われたら終わりです。
伝統も仏壇もどうでもよい、僕が欲しいと思う物を作ろうと思ったのです。
それが伝統の技術で「駄」な物をつくるというスタイルです。
僕は「伝統職人の無駄使い」と名付けました。
代表的なものが「心を磨くセット」です。
木彫りで荒く掘ってもらった心を同封してあるサンドペーパーで購入者が綺麗に磨くという駄洒落を具現化した商品です。
このアイデアは「NHK美の壺」という根付けの本の中で掲載されていた物をヒントに作成しました。kokoro1.jpg
上から見ると何を磨いているのか分からないのですが、下からみると心という文字を磨いている根付けです。
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この遊び心に僕はズキューンってきちゃうんですよ。
江戸時代には物づくりに遊べる余裕があったような気がする。


「駄」を否定すると無駄になります。
それはイコール面白くない物です。
物づくりの世界は無駄を排除したがります。
効率が良いからです。
でもそれは人の心を離していくことになるような気がしています。
もともと小ロット生産しかできない伝統的な工芸の世界に効率を求めて面白くない物づくりすることが無駄だと思います。


心を磨くを作り始めて、一緒にやっている彫刻師が「男を磨く」と「女を磨く」を考えて作ってくれました。
伝統工芸士の肩書きがある男が作ってくれています。
まさに伝統職人の無駄使いって事で。
まずは気取らない物づくりを本気でやっております。
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僕の物づくりにおける「遊び」論

千利休が詫びの世界で「渋さ」を求め、その弟子、古田織部が形を崩し「一笑」という新たな美意識を生み出した。
基本形を少し崩すことで生まれてくる美しさを求めてきたはずだ。
そこに自分の美意識を注入してきたのだろう。


丸と四角だと僕は四角が好きだ。
曲線よりも直線の方が好きかもしれない。
自分がへそ曲がりなのは、曲線と直線が組み合わさったら、そっちのが好きである。
要するに捻じれているとカッコいいと思う。
捻じれって歪みがシャープになった気がする。


僕の物づくりにおけるコンセプトは「遊」である。
遊びってあたかも悪い言葉のように聞こえる。
しかし、そうではない。
遊学といえば「よその土地や国に行って勉強すること」だし、
外遊といえば「外国に勉強しにいくこと」だ。
遊は外を向く言葉である。


また仏壇つくりにとって「遊び」を作るという事はとても大事な作業の一つである。
仏壇は職人の分業制で出来上がっている。
木で仏壇のフォルムを作る木地師はワザと少し空間を作る。
漆塗りをした時に出来る塗の厚みを考えて作っているのだ。
数ミリの事だけども、それがなければ仏壇を組み立てるのに苦労をする。
その隙間を職人は「遊び」と言う


美しいものが生まれるのは偶然の産物の場合が多い。
それが必然なのか偶然なのかは分からないが。
そしてそこに往きつくには沢山の失敗と試行錯誤がある。
遊びの心がなければ、やってらない。
ストイックにやっていけば、生まれてくるものが暗くなるような気がする。
そして、技術の向上だけを求めていくと内側に気持ちが向いてしまう。
技術のある者は技術のない者をバカにするようになる。
そのような世界は暗い。
僕は外を向いて明るくいたい。


物づくりに「こだわり」って良し悪しだと思っている。
材料なんかにはこだわるべきだとは思うが、デザインなんかにこだわりを持つべきではない。
変幻自在、臨機応変、こんな事が工芸の世界で出来れば良いと思う。
僕が目指すのはそんな所なんだと思う。
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僕が思う供養について

仏壇屋である僕が真剣に「供養」に向き合ったのは実は2011年からだ。
僕にとって仏壇とは伝統的工芸品である「三河仏壇」の事であり、300年続く伝統をいかに保全していくかを考えていた。
失礼なことなのだが、供養のことよりも伝統保全を第一に考えてきた。


実は供養とは仏教的ではない。
生きるための宗教である仏教は死後の世界には基本的にノータッチなのだ。
葬式や法要で仏教に触れ合う在家の者には意外でしかない。
正論では仏壇とは本尊を祀るところであり、祖先を祀るところではないのだ。
しかし実際は人が死んだ後にお祀りする場所として仏壇を購入するケースがダントツに多い。
在家が求めるのはやはり「供養」なのだ。


供養の事を真剣に考えるようになったのは東日本大震災以降である。
津波被害の位牌修復ボランティアで知り合った位牌修復依頼の方々から供養の大切さを教わった。


位牌修復ボランティアをやるために初めて被災地に入った時に数件のお寺にも話を聞きに行った。
お寺の住職は「位牌や供養よりも生きるための事(衣食住)が先であり、位牌なんかは最後で良い」と仰った。
お話を聞かせてくれた人は「毎晩寝ると、枕元に故人が出てくるんだよ。何よりもきちんと供養をしてあげたい」と仰った。
お寺と在家に供養に対する感覚のズレを感じた。
そして僕にもズレがあった。


伝統を守るために仏壇の技術を使って新商品を開発することばかりをしてきた。
300年の歴史を守るという正義は確かにあった。
しかし、僕は「供養」の大切さを軽んじていた。
被災地の位牌を100柱くらい直した頃に自分のズレに気が付いた。
ほんの数年前のことだ。
仏壇が担うべきなのは「供養」なのだ。
たとえそれが仏教の本流じゃなくとも、「供養」は絶対的に大切なことなのだ。


縄文時代から日本人は弔うことを大切にしてきた民族である。
戦国武将は兄弟の中から一人は僧侶にした。
手を汚す者がいれば、浄化させる者が必要である。


僕は施餓鬼という感覚が好きです。
餓鬼道に落ちてしまった見ず知らずの人の為に供物を備えて救ってあげようとする儀式です。
自分の祖先だけじゃなく、見ず知らずの人の為にも手を合わせようとする感覚がとても日本的で好きです。
家が絶えてしまって子孫がいなくなった祖霊も施餓鬼的なことがあれば嬉しいはずです。
今風に言えば供養のシェアじゃないかな。


明日は5月11日。
東日本大震災の月命日の日です。
僕は仲間(人生の先輩方)と「祈りと和」という被災地イベントを奇数月の11日前後にやっています。
2本のキャンドルを並べて、一本は自分のため、もう一本は被災地のために祈りましょうと言う趣旨でキャンドルナイトを続けています。
僕はその感覚が大切なのだと思っています。
まさに施餓鬼的な感覚です。
明日は「東日本大震災と仏教」というドキュメンタリー映画鑑賞と共に「フリースタイルな僧侶たち」のフリーペーパーの編集長でもある僧侶「池口龍法」さんをお招きして仏教トークもします。
ご興味のある方はぜひご参加ください。

日時:2014年5月11日(日)

時間:17:00~19:30

会場:幸田町商工会館 愛知県額田郡幸田町大字大草字長根尻100番地

会費:1,000円(位牌修復ボランティアSpJに全額寄付)
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僕の美意識

最近、いろいろな事に手を出していて都築がブレブレだと思われているかもしれない。
ウルトラ木魚に新技術の漆器開発。
伝統仏壇を捨ててしまった訳ではない。
全ては仏壇の延長上である。

ちょっと自分の美意識について書いてみようと思う。

少し唐突だけども、物の使い勝手の事を「渡り」デザインを「景」と昔の人は言った。
千利休は「渡り6分、景4分」といい、デザインよりも使い勝手の良さを大切にした。
現在にも残る「用の美」という言葉は利休の求めた美に行きつくと思う。

それとは逆に「渡り4分、景6分」という美意識を世に広めた人物がマンガ「へうげもの」で有名な古田織部です。
使い勝手よりもデザインを大事にした人物である。
僕は利休よりも古田織部の方が好きである。
戦国武将であるのに新進気鋭のデザイナーでもあった。

アートマンとして作ってきた物は「渡り3分、景7分」くらいの物だった。
その景は自分の独りよがりのデザインでしかなかった。
でも僕はそれで良かった。
何もない所に道を作るのには、自分に自信がなければ進めない。
しかし、今思えば恥ずかしいデザインばかりではあるが……。

僕が今求めているのは「渡り4分、景6分」
漆では難しかったことを特許を申請中の新技術を使って表現する。
ざっくり言うとシャープさだ。
漆はどうしても「ぼて」っとした感じになる。
それがどうもカッコよくない。
漆が持つ滑らかな表情が僕は昔から好きじゃない。

知っている人は少ないと思うが、僕は24歳から数年間漆塗りの修業をしていた。
親方の所で基礎だけはしっかりと教えてもらった。
とある事情で仏壇屋に呼び戻されたのだが、そのままだったら漆塗り職人になっていた可能性は高い。

漆は綺麗だ。
日本人ならば誰だって思うことだと思う。
しかしながら、百貨店の漆器売場や一部のギャラリーなんかに行かなければ漆の製品なんて見ることができない。
世の中にあるのはウレタンなどを使った漆風の物ばかりだ。
代用漆を塗ってある物を漆だと勘違いして販売している所だってある。
日本人が誰でも綺麗だと思う「漆」を触れる場所がない。

もったいない。

僕の美意識と話がずれたけども、漆の美しさを普通に見せるのではなく、より美し見えるデザインを今考えている。
新工法が新デザインを産みだすと思っている。
「渡り4分、景6分」の面白い漆器が近いうちに発表できるはずです。
ジャパン100企画

巨大ウルトラ木魚も展示中!TCJ50セカンド

昨年の8月に開催された円谷プロ50周年企画「円谷プロ・クリエティブ・ジャム50(TCJ50)」用に制作したウルトラマンの顔をした木魚があります。
その巨大版を東京芝の増上寺で開催された向源という寺フェスで使ってもらいました。
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徳川家康が帰依していた黒本尊を安置してある安国殿で浄土宗青年会の方々がウルトラ木魚を使って人形供養を執り行ってくださいました。
荘厳な雰囲気に大感動。
TCJ50に参加してくれているクリエーターさん達も法要に参加してくださいました。
その中の方がツイッターでウルトラ木魚をアップしたら4000を超えるリツイートがあり、ちょっとビビッています。
https://twitter.com/claymanlabo/status/460998475128139776/photo/1
木魚とウルトラマンという組み合わせはありえないですからね。


実はTCJ50が現在新宿マルイメンの1階で5月7日(水)まで開催しております。
そこには巨大ウルトラ木魚もドデーンと展示されています。
日本で数人しかいなくなってしまった木魚職人さんの渾身の力作をぜひご覧になってみてください。
ウルトラ木魚のイメージが強いかもしれないですけども、凄腕クリエーターさん達が作る素敵な円谷キャラも展示販売されています。
ここでしかゲットできない商品も多々あります。
詳しくは下記のサイトでご確認ください
http://blogs.yahoo.co.jp/tsuburaya_official

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