御駄物な話

伝統的な技法を駆使して天上天下唯我独特なデザインを生み出す駄な物づくり哲学

2014年07月の記事

改革しちゃダメなんだよ

僕は改革って言葉が嫌いです。
改革って古い物を破壊した上で新しい物を構築するからです。
改革の後には輝かしい未来が待っているようなイメージがあるんですけども、多くの場合は混乱するだけです。
伝統の世界にも新しい風をって外部の人は言うけど、僕はそうは思わない。

新しいことをやっていると「とんがってる」って思われるけども、案外僕はとんがってはない。
どちらかと言えば、いかに伝統を守るかを考えている。
だから改革とかは嫌いなのだ。
保守的な人間である。
(最近は保守って言うといかがわしい人達も多くなってきているので、反改革的な人間って方が正しいかも)
人を否定したり、誰かの悪口を言うことが醜いと思っているから、批判から入る改革って言葉が好きになれない。

改革と似てるんだけど違う言葉で「展開」って言葉があります。
僕は「展開」って言葉が好きです。
それは破壊を伴わなく、進歩していくイメージがあるからです。

日本の伝統の素晴らしい所は「継続性」です。
数百年って続いている。
300年の歴史がある三河仏壇だって、明治維新、世界戦争など今よりも価値観が大きく変わらざる時代を無事に乗り切ってきています。
改革を拒否しながら、じっと耐えたのだと思います。
そして耐えしのんで、時期を見て展開していったのだと思います。

「日本人くらい、伝統をおしげもなく捨て去って、さっさと始末してしまう国民のいない」と三島由紀夫さんが言っています。
しかし、多くの日本の伝統は国民に見捨てられても現在に残っている。
不思議な継続性というのか復活力というのか、表現がわからないけども、日本の伝統は生命力が豊かである。
常に時代が新たな展開を求めているのは確かだとは思う。

ただ、そこには否定から入る必要はない。
間違いなく「日本の伝統文化および工芸」は素晴らしいからです。
そこを疑う必要はない。
自分の技術が素晴らしいコンテンツであるという認識を持ち、その技術を違う形で表現をする。
それだけで技術の継承がはかれ、日本の伝統の継続性は保たれると思う。
伝統をおしげもなく捨て去っているように見えるだけで、そこには文化の継続性はあるはずだと思う。
そう考えれば新しいものを作ることも否定されることはないと思う。
物づくりは楽しくやればいい。

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自分が好きなものを思い出さなきゃダメなんだよ

伝統的な物づくりの現場が崩壊しつつある現在、新たなヒット商品を考えなければいけない。
しかし常識が邪魔をする。
それから世間のイメージも邪魔をする。
皆が伝統の仕事をしているって褒めてくれるから、
知らず知らず、身の丈よりもかなり高い場所にいるような気になってしまう。
普通の考えだと、「世の中に恥ずかしい物を出せない」ってことになっちゃう。

僕は10年くらい前に仏壇の技術でアート性の高いプロダクトを作り始めた。
最初にぶつかったのは発表の場です。
国指定の伝統的工芸品に認定されている「三河仏壇」を作っていても、仏壇を工芸品として見てくれる人がいるわけもない。
当然だけども仏壇がアートであるわけがない。
発表すべきジャンルが仏壇以外にないのです。

僕が発表の場で選んだのは東京の「デザインフェスタ」や名古屋の「クリエーターズ・マーケット」などの自由に発表できるアート系のイベントへの参加でした。
そこには工芸もアートもなく、プロもアマの垣根もなく、小さなブースエリアを自由に使って発表できた。
ブース料を支払って仏壇作品を展示した。
すべてはそこから始まった。
イベントに何度も出ている間にアーティストの知りあいも出来た、ギャラリーの人とも知り合った、今に至るネットワークはこういうイベントで培ってきた。

そこで気づいたのは伝統の世界にいる職人も、数百円の物をつくっているアーティストも関係ない。
仕事をゲットしようとしているアーティストの方が元気だったりする。
伝統の世界は元気がないのだ。
守るものと攻めるものの違いかもしれない。

そして守ってきたものが崩壊し、攻めに転じなきゃいけない。
その時に必要なのは「元気」なのだ。
職人が元気になれるのは、好きな物を作る時だろう。
売れるものを作ろうと思うから、苦しくなる。
好きだった物を作って、売ってやればいい。

だから、自分が好きなものを思い出さなきゃダメなんだよ。
それが物づくりの中で自分のパーソナリティが作り上げられる。
それを見つけて、普段の仕事をしてみたらわかる。
同じ物を作っても「顔」のある商品ができていることを。
そして、自分の作ったものを人に語れるようになっていることに気づくはずです。

だから好きなものを思い出さなければ、新たな商品が生まれないのだと思う。
作りながら思い出してもいいのかもしれない。

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岡崎のタウン誌「リバ!」で御駄物な話が今月から連載開始

ロックなあの世授業「ロッキン六道」が先月で掲載終了しました。
(昔の記事は仏壇話ってブログにアップされています)

「ロッキン六道」はあの世トーク中心に書き、その後の「ロッキン六道Ⅱ」はあの世キャラクターの説明をしてきた。
死後の世界ってあるんですか?って聞かれるといつもこう聞き返していました。
死後の世界があると思って生きるのとないと思って生きるのだと、どちらが得ですか?
僕の答えはこんな感じです。
死んでからのことは正直分からない。
だけど、死後の世界がないと思って好き勝手生きてきて、死んだあと死後の世界があったと知ったら手遅れだ。
逆に死後の世界があると思って生きてきて、死んだあと何もなくても別に困らない。
だったら死後の世界があると過程して生きた方が絶対得だし、良い人生を送れると思う。
逆にその為に死後の世界という概念は存在しているのだと思うとね。
仏壇に手を合わす理由だって、お寺に行く理由だって、そこに通じると思う。
仏教では触れない「あの世」って世界を数年間語ってきた。

しかし、最近よく言われるのが「都築さんの活動って面白いですよね」って言葉です。
実は僕は活動している感覚があまりなかった。
どちらかというと、諸々な人達に巻き込まれて動いていたって感じだった。
でもその諸々な人達に巻き込まれて動いているうちに独特な世界に入り込んでしまったんだろうね。

仏教好きだし、玩具好きだし、椅子好きだし、ビール好きだし、政治好きだし、新しい事が好きだし、物づくりが好きだ。
たぶんこんなのがミックスしてしまっている。
天上天下唯我独特なわけです。
だったら、そんな世界をちょっと客観的に文章にしてみようと思い新連載となりました。
それに伴い、ブログも「仏壇 is 超Cool」からタイトルを「御駄物な話」に変更しました。
ここのブログの内容と一部リンクしてしまうかもしれませんが、リバ!に掲載する文章は常に新規で描いていきます。

リバ!は愛知県岡崎市内各所で毎月20日から無料配布されているフリーペーパーです。
見つけたら手に取ってみてください。
御駄仏な話ロゴ

救世主に自分がなればいいんだよ

伝統の世界に身をおく自分として「救世主」を求めていると感じることがおおい。
良くわからないデザイナーの意見を聞いて商品開発して失敗ばかりする。
確かにシャープなデザインを提案してくれる。
でもその多くは伝統技法を生かしたデザインなんかしてこない。
つまらないマーケット的な理論を振りかざして、「この時代にはこんな物が売れているんですよ」とそれっぽい資料を沢山用意してくる。
この新商品がきっと我々伝統の仕事をしている者を助けてくれるはずだと信じているのだろうけども、大抵はデザイン料がゲットできれば良い程度の提案なのでそれが売れるはずもなく失意におちいる。

期待していた分だけ落胆はひどい。

伝統の商品の多くはデザインがダサいから売れないと思っている。
デザインの専門家に見てもらえば、自分たちの苦手な分野を補えると思っている。
僕たちと一心同体で伝統復興をやってくれる救世主が現れたなんて錯覚してしまう。
それがそもそも間違いなのだ。

デザインが苦手だったら、絶対自分で猛勉強してでもデザインを真剣に学ぶべきだ。
僕だって30歳の頃までデザインなんてやったことなかった。
だから初期のものはダサいものが多い。
だけど、自分でデザインした。
何故なら職人を生かすデザインなんて外部の者にできるはずがないと思っていた。
自分らが苦手なものは時間かけてでも克服し、能力を高めるしかないと思っていた。
誰かに救ってもらおうなんて思って何度も歩み寄ってがっかりさせられた経験が多々あるからだ。

何でも10年かかる。
デザインだってシャープな提案するのには10年かかる。
物づくりだって一緒だ。
思ったことを10年やりつづければ自信になる。
1年、2年で結果をだせる世界なんて1、2年で飽きられる世界だ。
今は苦しくても続ければ何とかなる。
事を成し遂げようと思えば10年くらい苦労して丁度良いのだ。
10年の苦労は人間を成長させるからとても大切なことだと思う。
その苦労がいつか花開くのだが、その苦労がいやだから「救世主」を求める。
だが時間だけは裏切らない。
技術だけは裏切らない。
だから救世主を求めてはいけないと思う。
特に自分が失敗したからね。
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職人2.0になりなさい

職人2.0という概念は昔からの僕の持論です。
伝統職人とかって進歩しないのが美徳である。
電動工具なんて使わずに、古来からのやり方で物作りをするのが理想である。
それを目指す人はすでに職人2.0ではあるのだが、僕が言いたいのはちょっと違う。

その職人2.0とは何だという説明の前に職人1.0とは何だ。
職人とは綺麗な物づくりができる人である。
職人に「綺麗に作るね」って褒めてくれる人がいます。
それって当たり前です。
上手に作れる事に満足しちゃっている人は職人1.0。
創意工夫せずに手だけ動かす職人。
高度成長期やバブルの頃には早く上手く仕事ができる職人が素晴らしかった。

グローバル化の流れで格安の物が入ってくる。
職人の物が良いのはわかるが、見た目が同じなら安い海外製でいいやって思う。
技術よりもコスパ(コストパフォーマンス)が優先される。
その結果、日本の伝統製造はガタガタになってしまった。
コスパって言葉は恐怖だ。
低価格帯の物をほめたたえ、高価格帯の物を失墜させる言葉だ。

そしてコスパを大切にする人は情報発信された物に蟻のように集まる。
それが世に言う「ブランディング」ってヤツだろう。
新聞に掲載された、テレビで紹介された、雑誌に載った、有名人が紹介したってわかると物の価値があがる。
(ただし、瞬間的でしかない価値が向上するだけですが)
でも僕はそれを否定しない。
その情報発信力は伝統を救う可能性があるからです。

グローバリゼーションがもたらしたコスパの感覚は日本の伝統を破壊してきた。
しかし、破壊されたからこそ、それを守らねばならない感覚を持つ人も生まれている。
日本という素晴らしい国を大切にしなければというナショナリズムも当然復活する。
数百年続く事が当たり前の日本の伝統を日本人は簡単に放棄できるはずがない。

しかし、破壊された日本の伝統と多くの人は接点を持たなくなってしまった。
特に漆の物なんて見たことも触ったこともない人が多いのではないだろうか?
(漆風のプラスティックのお椀を漆だと思っている人も多いと思う)
要するに伝統職人が担うのは物づくりだけでなく、同時に普通の人と接点を作らなければいけない。
伝統技術の事を人が知ることができる入口を作らなければいけないのです。

だから情報発信をして取材をうけることで伝統への関心を持ってもらうことは大切なのだと思う。
話がそれた感があるが、ただ物を綺麗に作る職人が1.0だとすれば、2.0は綺麗に作った物を人に知ってもらう活動と行動をする職人である。
幸いな事に我々伝統職人を苦しめてきたグローバル化の根源であるインターネットという環境が整備されている。
ソーシャルネットワークを使えば容易に情報発信ができる時代である。
伝統職人が少なくなった昨今、我々が作る物はニッチであり、ニュース性の強い物になっていると職人は自覚すべきである。
そしてそれを作り続けていることを誇りに思い、大いに人に自慢すべきである。

僕にみたいに変わった物を作る必要はない。
普段作っている伝統の物を情報発信するだけのことだ。

黙々と寡黙につくる姿、伝統を守る姿勢などがすでにコンテンツとして素晴らしいのですから。
職人にあこがれる職人としては、それを伝えないのがもったいないと思っております。
だから、皆が職人2.0にバージョンアップすれば世の中の方がびっくりして面白い日本になるような気がします。

そして日本の伝統に興味がある人達の力で伝統を守ってもらえることになるのです。
我々が作る物は誰かに買ってもらうことで保全されてきたという事を作る側が忘れてはいけないのです。
人々が使ってくれたから伝統が残ってきただけである。
人々からそっぽ向かれたら、それで終わりであるという事に気づかなければいけないのです。
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豪華と上品 金箔のことを考える

仏壇には当然ですが、金が使われます。
小学校の生徒が授業で仕事場の見学に来ると金箔体験してもらうんですが、尋常じゃない興奮をする。
子供の反応は単純で面白い。
確かに金の使ってあるものって日常にそうないもんね。

金って使いすぎると豪華なんだけど下品に見える時がある。
しかし、豪華で上品にさせることもできる。
特撮ヒーローでバージョンアップした姿の物は金を使って強さを演出したりしている。
色で言うと最上級が金なんだろうね。

昔、遊びで「金箔に落書き」という商品を作ったことがある。
せっかく職人さんに綺麗に押してもらった金箔の板にひっかき傷を作って絵をかいてしまうっていうくだらない商品だ。
金箔の板に「運」と書いたり、「う○こ」の絵をかいて金運アップのキーホルダーとして販売したりした。
数個だけしかつくらなかったのですが、ジワジワと売れた覚えがある。
作っている自分がバカらしいと思って今では作ってないのだけど。
伝統工芸の技術が素晴らしいという発想が普通の世界にいるので、その技術を使った駄洒落商品はインパクトがあったのかもしれない。
金の板の上に書かれた「う○こ」の絵は上品なのか下品なのか分からない。
でも駄なのは間違いない。

駄な発想は結構日本人は好きだと思う。
でも発表する勇気が案外ない。
タブーなんだろうね。
僕だって10年前だったら作らないし、そんなの作っている人いたら怒れちゃうと思うからね。
いつも言うんだけど、僕のやっている事を主流にしたいと思っていない。
本流という伝統工芸があるので、僕のやっている支流が生きるし、面白いと思ってもらえる。
ただそれだけ。
だから駄でいいんです。
本流である仏壇つくりはちゃんとやっているからね。
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僕が物を作る時、コンセプトが大切なんだ

僕が物を作る時からなず企画書的な物を作ります。
小物みたいな物は勢いで作ることがありますが、それは例外。
理由は2つ。

1つは制作に携わる職人が多いから。
アートマンで作った物だって最低でも宮殿師、彫刻師、塗師、箔押師が携わる。
必要に応じては金具、蒔絵の職人さんにも参加してもらう。
いつも作っている仏壇ならば阿吽の呼吸で作れるのだけども、変わった物はそういうわけにもいかない。
図面やミニチュア模型なんかを作成して、面倒がる職人さんに「作ってもらう」というスタイルが常なのだ。

2つ目は作品に仏壇の雰囲気がどうしても出てしまうから。
僕にとっては仏壇の技術の応用であるのだが、多くの人は変わった仏壇を作っていると思っている。
その中には「仏壇を冒涜している」と直接怒られることもたまにある。
そういう方々にしっかり説明できるように制作する意義などをちゃんと答えられるようにしてある。
反骨心を持ったアーティストなら批判も成功なのだろうけども、僕は通常仏壇屋をやっている。
度を超えた批判は仏壇屋としての評判も落としてしまう。
それもマズいです。

その企画つくりをする癖が気が付けば自分の物つくり哲学を構築する事になったようです。
また企画を考えることでディテールにも意識がいくようになりました。
でもそんな事を毎回やっていると感覚的なものが鈍くなる。
それで廃棄する仏壇のパーツを使ったジャンクアートを始めたりした。
企画を作って職人さんたちと物づくりするのも面白いし、自分の感性で作るのも面白いと思う。
感性で作っているけども作った後で結局企画書的な物を作成してしまう。
やっぱり僕の物づくりにはコンセプトが大切なんだろう。

今後は仏壇の臭いがする作品たち、デザインの影響をうけたものたちを紹介していければと思っている。
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職人にあこがれる職人でありたい

先日ラジオの取材で「職人にあこがれる職人」と自分を表現した。
実際、僕は半商人半職人の仕事をしている。
仏壇の修理をやりながら、仏壇屋の仕事もやる。
仏壇屋以外にもデザインやって文章も書くし、企画もする。
全く違う頭が必要になることをゴチャゴチャになりながらまとめているようなもんだ。

しかし、職人仕事は要である。
なぜなら、多くのアイデアは職人仕事をしている時に浮かぶ。。。というのか頭の中で整理される。
特に仏壇を組み立てている時に頭に浮かんでくる。
頭に浮かんでしまったら最後、職人仕事は手につかなくなる。
クリエティブなスイッチに切り替わってしまうからです。

僕のお爺ちゃんは仏具職人でもあり農家であった。
手先が器用だった爺ちゃんは農業の合間に職人仕事をした。
非日常の物を作る職人は兼業作業で丁度よいのかもしれない。
僕が背負う伝統なんて少し前はそんなもんだった。
そう思うと気楽ではある。

お爺ちゃんのやっていた仏具の仕事は海外で作られるようになって親父が仏壇に技術を転用させた。
いまどきの言葉で言うならイノベーション。
土地と仏壇って比例する。
土地が売れれば先祖のおかげだと感謝して良い仏壇を買ってくれた。
先祖が大切に守ってきたものを手放す罪悪感もあったのかもしれない。
だから日本の成長とともに仏壇は売れた。
職人も忙しかった。
手仕事は大量生産に向かないし、人材入れても技術を習得するのにも時間がかかる。
皆忙しかった。

そして急に高額の仏壇が売れなくなった。
本当に急だった。
生産スタイルはお爺ちゃんの時代のように半分職人で丁度よくなった。
スタイルは同じでも今から良くなる時代と良くならない時代では気持ちが違う。
制作するモチベーションが違う。
伝統は急に守らなければいけない時代になった。
今までと同じことをやっても守れない時代になった。

ただそれだけ。
今までと違うことをやる。
それだけなのだが、伝統の世界ではそれが一番難しい。
長年かけて自信をつけてきた自分の技術と作り上げてきた商品。
それが職人のプライドだろう。
僕はそんなプライドはない。
僕は半分職人だから持っている技術は恥ずかしいものだ。
今の時代はそれでいいと思っている。
ただ「職人にあこがれている職人」というスタイルはずっと持っていたい。
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ブログを一新「御駄物な話」をしよう

ブログタイトルを「仏壇 is Cool」から「御駄物な話」に一新しました。
仏壇の技術を世界に発信しようともがいた10年間。
多くの失敗と共に多くの学びを得た。
得たのは自分を表現する言葉です。
それが「御駄物」です。
もちろんそれは「お陀仏」から来ています。

僕は古田織部の「一笑」って作風が本当に好きです。
僕のポリシーとして物作りの基本は遊びの延長だと思っています。
昨今のアート&工芸の商業主義で日本本来の「面白さ」が失われつつある。
マーケットを意識して制作してしまうのは半分商売人なので理解はできるんですが、それが主流になると寂しいと思う。

僕の作る物のテーマは伝統技法の美しさをいかに表現するかです。
しかし、残念なことに僕が作ってきたのは仏壇です。
300年の歴史があっても、それは工芸でも芸術でもない、宗教用具です。
仏壇は日本の精神性まで入り込んだとてつもないプロダクトです。
しかし、誰もそれに凄さを感じない。
それどころか、死と近い所にあるが故に忌み嫌う。
産業として停滞するが故に新しい物を発表すれば「罰当たり」じゃないのって批判を受ける。
僕がやってきたのは1流になるのを目的にしてこなかった。
1流は300年続く伝統的工芸品「三河仏壇」、それの下の物を作りだしたい。
2流が僕が進む道。
仏壇を身近になってもらえばと思ってやってきたが、多くの人には伝わらず「ふざけた人」だと勘違いされてしまった。
自分の表現力が未熟だったので申し訳なく思っている。

でも日本の戦国時代に実際にやっていた人を知るのは数年前。
甲乙丙の「乙」でいいと、それをデザインしたのが古田織部。
僕はそこを目指す。
そして僕が目指すのは「駄工芸」
まさに伝統職人の無駄遣いがテーマである。

まぁ、いろいろと今後も怒られることもあるだろうけども、僕が進むのは1流の世界じゃない。
だが超真剣にやる。
ふざけていると思われることを妥協なくやることで感動を生む。
その結果、時代が過ぎて評価を受ければよい。
僕が作る「お陀仏」な物が評価を受けるような時代がくれば僕は痛快だと思う。

これからは僕のデザイン哲学を中心にブログを書いていこうと思う。
売れない物づくりでも何かの役にたつと思うからね。
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壁について考える

元来、日本の住宅には壁が少ない。
柱の上に屋根を乗せて、襖や障子で間仕切り部屋を作る。
人が集まるときには障子や襖を外せば大空間が作れるユーテリティな構造である。
もちろん、一番奥の部屋に仏間なる先祖のための空間を作ってきた。


こういう構造の家は防犯には不向きである。
知り合いが気楽に入れるように、泥棒も気楽に入れてしまう。
実際、僕が20歳になる頃まで家に鍵をかけるという風習がなかった。
こんなの世界的に稀な環境だと思う。


世の中の流れの変化だろうか、最近は気密性の家が出来、それと共に祖先のための空間「仏間」も作らなくなってきた。


防犯にはいいが、日本らしさがなくなってきた。
家には壁が多くなり、個々のスペースが増え、そして無駄なスペースは極力排除されてきた。
削られたのは祈る空間だった。


日本の住宅に壁が増えることで日本らしさを失い、人を疑うようになってきたのかもしれない。
またフレキシブルな考え方も失いつつあるあるのかもしれない。
日本特有のイエスorノー以外に存在する「どちらともいえない」って感性が僕は好きだ。
どちらか選べってのが日本人には向いてない。
この優しい民族にはノーの中にイエスを見つける事を得意とする能力が備わっている。
古来、仏教が日本にやってきた時にも神仏習合というミラクル技で宗教戦争を避けた。
こんな感性は日本人しか持ってない。


日本の住宅が壁を持つようになったのは海外との交流が頻繁に始まってからだ。
いつだって日本は海外の文化を取り入れ柔軟に変化させている。
臨機応変な国民性を誇りに思うべきだ。


現在の国際状況で壁とは何であるかを考え、そして日本ができる対応が何であるを考えることができれば良いのではないだろうか?
西洋から持ち込まれたくだらない二元論に陥らないようになってもらいたいと思う。


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