御駄物な話

伝統的な技法を駆使して天上天下唯我独特なデザインを生み出す駄な物づくり哲学

僕の祖父2(父方)

前回母方の祖父の話をブログで書きました。
今回は父方の祖父です。


実は祖父は僕が生まれる前年に病気で亡くなっているので実際の顔は仏間の鴨居にかけられている遺影だしか知りません。
そして真面目で無口な職人だった事くらいしか知りませんでした。


父方の祖父は戦争に行っていません。
背が低すぎたのが理由だったようです。
戦争に行けなかった若者は田舎の小さな村で肩身を狭くして過ごしたのだろうと察しがつきます。
祖父もその一人だったのではないかなぁ?


都築の家は男系が早死にする家系だったようで、どんどん貧乏になっていったようです。
祖父は都築家の三男坊だったが、兄二人が早くなくなってしまったので跡を継いだようです。
三男だった事もあり、幼い頃から食い扶持を減らすために名古屋の仏壇彫刻師の所へ住み込みで奉公しています。


祖父の時代、都築家は柿農家をやっていたそうです。
現在、幸田町民会館がある場所に柿畑があったと祖母が聞かせてくれました。
その畑を守ったのは祖母で、祖父は若い頃に覚えた職人技を生かして僧侶が座る椅子「曲録(きょくろく)」を作る専門の職人となりました。


実はその曲録を専門で作る職人は愛知県に祖父だけだったようです。
近くにいたのは滋賀県に一人いただけだという事で仕事はひっきりなしにあったそうです。
祖父が作った曲録が愛知県内でいまだに使われているかもしれないと思うと何かぐっと来るものがあります。


祖父の唯一の楽しみには昼1合、夜2合の酒だったそうです。
特に何か語るわけでもなく、祖母が見聞きした話を「ほうか(三河弁でそうなのかって意味)」と言って聞くだけだったそうです。
人と交わる事もなく、黙々と木と向き合う実直な職人だったようです。
母も父も口を揃えて祖父の事を「世間知らずな人」だと言っていました。
高度経済成長なんて関係なく、毎日を同じように過ごせた人だったのだと思います。


しかし祖父は53歳で亡くなってしまいます。
脳腫瘍だったそうです。
死ぬ直前まで仕事をやっていたそうです。


祖父が亡くなった後、父は曲録制作の仕事を継ぐ事はありませんでした。
その頃、既に曲録を作る仕事は台湾で殆ど作られるようになっていました。
将来を見据えて、よく似た技術で制作される仏壇に商売を移行させました。
時流に乗り、店もどんどん大きくなって今に至っています。
そしてその仏壇も曲録のように海外で生産が主流となっています。


僕の時代はどうするのだろうか?
時代の流れの中で変化を遂げてきた我が家の商売。
戻るのもよし、進むのもよし。
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