御駄物な話

伝統的な技法を駆使して天上天下唯我独特なデザインを生み出す駄な物づくり哲学

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僕が思う供養について

仏壇屋である僕が真剣に「供養」に向き合ったのは実は2011年からだ。
僕にとって仏壇とは伝統的工芸品である「三河仏壇」の事であり、300年続く伝統をいかに保全していくかを考えていた。
失礼なことなのだが、供養のことよりも伝統保全を第一に考えてきた。


実は供養とは仏教的ではない。
生きるための宗教である仏教は死後の世界には基本的にノータッチなのだ。
葬式や法要で仏教に触れ合う在家の者には意外でしかない。
正論では仏壇とは本尊を祀るところであり、祖先を祀るところではないのだ。
しかし実際は人が死んだ後にお祀りする場所として仏壇を購入するケースがダントツに多い。
在家が求めるのはやはり「供養」なのだ。


供養の事を真剣に考えるようになったのは東日本大震災以降である。
津波被害の位牌修復ボランティアで知り合った位牌修復依頼の方々から供養の大切さを教わった。


位牌修復ボランティアをやるために初めて被災地に入った時に数件のお寺にも話を聞きに行った。
お寺の住職は「位牌や供養よりも生きるための事(衣食住)が先であり、位牌なんかは最後で良い」と仰った。
お話を聞かせてくれた人は「毎晩寝ると、枕元に故人が出てくるんだよ。何よりもきちんと供養をしてあげたい」と仰った。
お寺と在家に供養に対する感覚のズレを感じた。
そして僕にもズレがあった。


伝統を守るために仏壇の技術を使って新商品を開発することばかりをしてきた。
300年の歴史を守るという正義は確かにあった。
しかし、僕は「供養」の大切さを軽んじていた。
被災地の位牌を100柱くらい直した頃に自分のズレに気が付いた。
ほんの数年前のことだ。
仏壇が担うべきなのは「供養」なのだ。
たとえそれが仏教の本流じゃなくとも、「供養」は絶対的に大切なことなのだ。


縄文時代から日本人は弔うことを大切にしてきた民族である。
戦国武将は兄弟の中から一人は僧侶にした。
手を汚す者がいれば、浄化させる者が必要である。


僕は施餓鬼という感覚が好きです。
餓鬼道に落ちてしまった見ず知らずの人の為に供物を備えて救ってあげようとする儀式です。
自分の祖先だけじゃなく、見ず知らずの人の為にも手を合わせようとする感覚がとても日本的で好きです。
家が絶えてしまって子孫がいなくなった祖霊も施餓鬼的なことがあれば嬉しいはずです。
今風に言えば供養のシェアじゃないかな。


明日は5月11日。
東日本大震災の月命日の日です。
僕は仲間(人生の先輩方)と「祈りと和」という被災地イベントを奇数月の11日前後にやっています。
2本のキャンドルを並べて、一本は自分のため、もう一本は被災地のために祈りましょうと言う趣旨でキャンドルナイトを続けています。
僕はその感覚が大切なのだと思っています。
まさに施餓鬼的な感覚です。
明日は「東日本大震災と仏教」というドキュメンタリー映画鑑賞と共に「フリースタイルな僧侶たち」のフリーペーパーの編集長でもある僧侶「池口龍法」さんをお招きして仏教トークもします。
ご興味のある方はぜひご参加ください。

日時:2014年5月11日(日)

時間:17:00~19:30

会場:幸田町商工会館 愛知県額田郡幸田町大字大草字長根尻100番地

会費:1,000円(位牌修復ボランティアSpJに全額寄付)
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