御駄物な話

伝統的な技法を駆使して天上天下唯我独特なデザインを生み出す駄な物づくり哲学

僕の物づくりにおける「遊び」論

千利休が詫びの世界で「渋さ」を求め、その弟子、古田織部が形を崩し「一笑」という新たな美意識を生み出した。
基本形を少し崩すことで生まれてくる美しさを求めてきたはずだ。
そこに自分の美意識を注入してきたのだろう。


丸と四角だと僕は四角が好きだ。
曲線よりも直線の方が好きかもしれない。
自分がへそ曲がりなのは、曲線と直線が組み合わさったら、そっちのが好きである。
要するに捻じれているとカッコいいと思う。
捻じれって歪みがシャープになった気がする。


僕の物づくりにおけるコンセプトは「遊」である。
遊びってあたかも悪い言葉のように聞こえる。
しかし、そうではない。
遊学といえば「よその土地や国に行って勉強すること」だし、
外遊といえば「外国に勉強しにいくこと」だ。
遊は外を向く言葉である。


また仏壇つくりにとって「遊び」を作るという事はとても大事な作業の一つである。
仏壇は職人の分業制で出来上がっている。
木で仏壇のフォルムを作る木地師はワザと少し空間を作る。
漆塗りをした時に出来る塗の厚みを考えて作っているのだ。
数ミリの事だけども、それがなければ仏壇を組み立てるのに苦労をする。
その隙間を職人は「遊び」と言う


美しいものが生まれるのは偶然の産物の場合が多い。
それが必然なのか偶然なのかは分からないが。
そしてそこに往きつくには沢山の失敗と試行錯誤がある。
遊びの心がなければ、やってらない。
ストイックにやっていけば、生まれてくるものが暗くなるような気がする。
そして、技術の向上だけを求めていくと内側に気持ちが向いてしまう。
技術のある者は技術のない者をバカにするようになる。
そのような世界は暗い。
僕は外を向いて明るくいたい。


物づくりに「こだわり」って良し悪しだと思っている。
材料なんかにはこだわるべきだとは思うが、デザインなんかにこだわりを持つべきではない。
変幻自在、臨機応変、こんな事が工芸の世界で出来れば良いと思う。
僕が目指すのはそんな所なんだと思う。
130811_1812~01
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