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御駄物な話

伝統的な技法を駆使して天上天下唯我独特なデザインを生み出す駄な物づくり哲学

過去ログ

曲録ッキングチェア

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 僕は仏壇屋の2代目です。
僕のお爺ちゃんは何をやっていたかというと寺院用仏具の職人でした。
お爺ちゃんが作っていた仏具というのがお坊さんが座る「曲録(きょくろく)」という椅子でした。
時代の流れでお爺ちゃんの作っていた椅子は台湾に製作拠点が移ってしまい、注文が激減。
仏具製造の技術を生かして父が仏壇製造に重点をシフトさせ、今の仏壇屋になっています。
そして仏壇の生産が中国にシフトしている現代、僕も父と同じように技術を他産業に転用するべく奮闘しているという感じです。
スタイルにこだわりを持たないというのは都築家の伝統でもあるのです。

 とはいえ、自分のルーツでもある「曲録」を復活させたいと常に思っていました。
そこで考えたのが曲録をロッキングチェアに改造した椅子です。

 日本人が椅子に座るようになったのは近年です。
少し前までは畳に座布団を敷いて座る「座」の文化が一般的でした。
椅子に座るのは身分の高い人です。
神社仏閣やお城など身分の違いを示すために、座る場所に段差を作っていました。
位の高い人が一段上に座るのです。椅子のような物に座れるのは地位の高い人。
お坊さんもその中の一人だったのです。
今ではお坊さんを軽んじる人が多いですが、とんでもない話です。
一般の人が椅子に座るようになった現代でも一段上に座れるように曲録の座の部分は普通の椅子よりも高い位置にあります。
ですから通常の椅子に比べると座りにくかったのです。
そこを改良すべくロッキングチェアのように前後に揺れるように足を改良しました。
座る時には前に倒してあげることで座の位置を低くできるからです。
またロッキングチェアにすることで立ち上がる時にも一度後ろに体重をかけ、前に戻る反動を使うことで立ち上がりを補助することができます。デザインを変えずに機能を変える。
それが僕が求める進化系の工芸です。

 デザインの変更は足の部分だけです。
ハンス・ウェグナーを思い出させるような湾曲のアームとかは昔のままです。
この素敵なデザインを仏具にとどめておくには勿体ないという僕の心意気が生み出した伝統デザインチェアです。
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「岡崎市ホーププロジェクト・現代アート×匠の仏壇」

 岡崎100周年事業の一つでもある「ホープ・プロジェクト」で岡崎の匠と現代アーティストとのコラボ作品を作ることになりました。
お相手はフェイク・クリームを使って何でもスイーツ・デコレーションしてしまう新進気鋭の若手作家「渡辺おさむ」さん。
渡辺さんが匠の会所属の匠の中から「三河仏壇」とコラボしたいと言う要望があり、僕の所に話がやってきました。

 仏壇と現代アートのコラボ。何だか面白いことになりそうな予感。
とは言え三河仏壇は数百万もする伝統的工芸品。それを提供できるほどの予算があるわけない。
三河仏壇の名前が出る以上、地元の職人の手で作られた物でなくてはいけない。
簡単に引き受けたけど、結構大変だと少したってから気が付いたのです。
数カ月悩んで決断したのが、僕が数年前にデザインした仏壇の宮殿を提供する事でした。

 その宮殿はアートマン立ち上げて初めて作った作品でもあり、アート曼荼羅屋根という名前をつけていました。
ずいぶん昔に「あの世の歩き方」という絵本を出版したことがあります。
その本の中で、新しい体が手に入るあの世のデパートという設定で絵を書いたのがアート曼荼羅屋根です。
それをアートマンのメンバーが製作してくれた物です。
宮殿本体は中岡崎の平林さん、彫刻は矢作の石川さん、漆塗りは青野の伊藤君と岡崎の匠ばかりなので、今回の企画に恥じる事はない作品です。
それを東京の渡辺さんのアトリエに持ち込んでスイーツ・デコレーションしてもらいました。

 芸術って勇気を出してタブーを打ち破ることで、評価を受けることが多々あります。
仏壇をデコレーションするなんてって思う人もいると思います。伝統仏壇の製造本数は年々減少しており、いつ消滅するか分からないような状況です。
こうやって注目をしてもらえることが本当に作る側からするとありがたいのです。
出来上がった作品は渡辺さんの力を借りて優しい雰囲気になりました。言うなれば「お菓子の浄土」です。

 6月25日(土)~9月4日(日)まで「おかざき世界子ども美術博物館」にて開催されます。
現代アートとコラボしなければ誕生しなかった作品をぜひご覧になってみてください。
ウルトラ木魚も展示されております。
詳しくは岡崎市こども美術博物館専用サイトでご確認ください。
http://www.city.okazaki.aichi.jp/300/305/p019779.html
いよいよ今週末までの展示です。

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「嘆きの牛 後半」

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 2012年3月12日に福島県浪江町にある「希望の牧場」に牧場主の吉沢さんの案内で大川興業の大川総裁と一緒に訪れました。
その日に伺ったのは東京電力福島第一原発が水蒸気爆発を起こした1年後だったからです。
311は気仙沼で過ごし、そのまま車で南下して福島入りして翌日浪江町にある牧場を案内していただきました。

 実は20キロ圏内の立ち入り禁止区域に入ったのは2度目です。
最初は2011年6月上旬に大川総裁から電話で、ハワイから放射能除去の新技術を持ったチームが来ているので除染テストに付き合って欲しいと依頼があり、ドライバーかねて福島へ行きました。
僕の初被災地は20キロ圏内だったのです。
芸人って物は何でも貪欲にやらなければダメだという総裁の信念に巻き込まれる仏壇職人です。

 浪江町にある希望の牧場の入り口には東京電力の悪口と共に牛の頭蓋骨が何個も吊るしてありました。
当然、立ち入り禁止区域なので誰も通りません。
誰かに見てもらいたいのではなく、自分の怒りを表現したかったのでしょう。
吉沢さんはその怒りを聞いてもらいたくて今でも定期的に渋谷のハチ公前で街頭演説をしているそうです。
その時に牛の頭蓋骨を持っていきたいと言っていたので、漆を塗ってみませんか?って提案したのです。

 徳川美術館に加藤清正が退治したトラの頭蓋骨が展示されています。
それには真っ黒な漆が塗られています。
漆は数千年前の遺跡からも出土するほど耐久性の高い塗料です。
実際400年ほど前のトラの骨に漆を塗る事で劣化を防いでいます。
この牛たちも震災後の原子力発電所の事故で死んだという歴史の証人であり、後世に伝えなければいけない大事件でもあります。
漆を塗る事で美しく、そして時間を止めることが可能です。

 僕はけっして原発反対派ではありません。
大飯原発が再稼働する時も3日後に現場を見に行ってきました。
原発反対とどんちゃん騒ぎしていた若者は一人もいなく、主婦らしき人が5人座って抗議していました。
テレビでは分からないことが現地にはあります。
現地に足を運び、現地の空気と問題を感じ、僕は作品に思いを込める。
しかし、悲しい出来事があったことを、またそこで苦悩している人がいることを忘れてはいけないと思っています。

*写真の作品は福島県浪江町でいただいた牛の背骨と仏像の光背を組み合わせた作品です。

嘆きの牛 前半

漆牛

 この作品は2012年3月12日に福島の浪江町に行った事から始まります。
僕は2011年3月11日に発生した東日本大震災の巨大津波で傷ついた位牌を直すボランティアを行ってきました。
そのアイデアって言うのか指令をいただいたのが江頭2:50さんが所属する大川興業の社長であり芸人の「大川総裁」です。
江頭さんがトラックで物資を運んだってのは有名な話なのですが、総裁は全ての被災地の小さな漁村まで訪れ、現地のニーズを聞き出して的確な支援をしていたのです。
被災地を歩いた総裁が目にしたのが傷ついた位牌だったという訳です。
「都築さん、何とか位牌を直してあげてください」って言う電話から、大川興業ボランティアに巻き込まれていくことなりました。

 福島の浪江町は東京電力福島第一原発から20キロ圏内にある町です。
当然ながら当時は完全に立ち入り禁止地区でした。
一般人が入れない地域で吉沢さんという方が今でも牧場を経営しています。
誰もから見捨てられた牧場の名は「希望の牧場」です。
吉沢さんとの出会いは全くの偶然でした。
僕と大川総裁が支援物資を届けに行った場所に偶然来ていたのです。
吉沢さんが現場をぜひ見てほしいと言う事で吉沢さんの運転で20キロ圏内にある希望の牧場に行きました。
当然ですが、道中すれ違う車はありません。
途中にあったコンビニの店内は震災発生時のまま。
人だけが消え去り、時が止まった町を抜けて人里離れた山の中に牧場はありました。

 牧場に100頭を超える牛が元気そうに放牧されていました。
その当時の政府がある決断を決めたことによって吉沢さんの戦いが始まったそうです。
20キロ圏内にいる家畜は全て殺処分にすること。
しかし、吉沢さんは我が子のように育てた牛たちを殺すなんて出来ないと牧場経営を今でもやっています。
殺処分の命令がでている動物にエサを持ってきてくれる業者はいません。
吉沢さんは自分のトラックに積めるだけのエサを運ぶのですが、十分な量を確保はできない。
その結果、力ない牛が死んでいってしまう。
これも一つの震災被害なんだろう。
人間だけではなく、動物も供養してあげられるオブジェを作れないかという吉沢さんの要望で現地に大川総裁と入っていったのでした。

(後半へ続く)

「デザイン哲学2:バックグラウンド」

 作品や商品を作るときに必ず意識するのは「日本」らしさです。
それも自分の感じる日本です。
僕は高校卒業後、4年間アメリカに行っていました。
仏壇屋の3男に生まれて、親からは自分の進む道を自分で見つけろと言われて育ってきました。
小さな頃から自分探しを強制的にさせられていたような気がしています。
才能のない人間が自分のやりたい事なんて簡単には見つけられません。
やりたい事がないのに何を勉強すればよいかも分からずに、出会ったのが落合信彦さんの本でした。
単純に世界を飛び回るジャーナリストってハードボイルドでカッコいいなぁって感じてしまった。
落合信彦さんがアメリカの学校に通った事で人生が変わった話を本の中で見つけて、僕もとりあえずアメリカの大学に行こうと決めたのです。

 自由の国だけども、自分のやりたいことを見つけられる訳ではありません。
自由とは実に不自由だと気が付きました。
何でもできるが故に悩む。
しかしながら、アメリカの国は大きな視野を与えてくれました。
そして、日本の素晴らしさも再認識させてくれたのも確かです。
帰国後、日本はバブル崩壊で空前の就職氷河期。
仕事がなかったのでバイト感覚で都築仏壇店で働き始めて現在に至っています。
仏壇屋で働き始めた頃は二男が店を継いでいたのですが、僕が漆塗りの修行に行っている間に父親と喧嘩して店を出て行ってしまいました。
その結果、自由に生きつづけた三男の僕が店を継いでしまったのです。

 こんなバックグラウンドで生きてきて伝統をひたすら守る道を進むわけがありません。
グローバル化の流れの中で、日本の伝統が大きく変革しなければいけない時期だと大きな視野で見ればすぐわかります。
しかし、誰も動こうとしませんでした。
伝統をもっと日の当たる場所にもっていく、これこそ自分の人生をかけてやる仕事なんだろうなって若き日の僕が思ってしまいました。

 当然ながら、伝統を変化させていく事は衝突を生み出します。
若いころは四面楚歌。
僕の行動は誰からも褒められることなどなく、多くのお叱りをうけました。
理解していただけなかった人たちからも10年続けてきた頃から、芯がある行動だとは認めてもらえるようになりました。
自分の中の伝える力も格段に上達してきたのだと思います。
しかしながら、新作を発表する時は今でも「誰かに怒られないか」常にビクビクしております。
特にソーシャルメディアの発達している現在はビクビク度がかなりアップしています。
それでも沸々と湧いてくるアイデアをカタチにする事は間違いなく面白いから止められません!

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